資料(有地氏の由来完全版)
以前タオルの 有地様から掲示板に書き込みを頂きました
有地家の由来に関する資料です。
掲示板が荒れ、閉鎖するに当って
この書き込みは どこかに残しておかないといけないと思い
こちらのほうに 掲載させていただきました
|
35] [有地宮氏]
中世後期... タオルの有地 - 最新投稿 タオルの有地 2006/05/21(日)21:55
|
|
[35-1] タオルの有地
2006/05/21(日)21:55
|
|
|
[有地宮氏]
中世後期、現在の福山市芦田町一帯を本拠とした国人領主である。品治郡(福山市新市町新市)の亀寿山城を本拠に備後屈指の勢力を誇った国人領主宮氏の庶流で、芦品郡有地村(福山市芦田町上・下有地)に土着したため「有地氏」を称した。しかし分出の年代ははっきりしない。
江戸期の記録によれば天文年間(1532〜54)、初代有地石見守清元は兄弟不和のことがあって亀寿山城を出奔、有地一ケ村を押領して国竹城に住し、三代民部少輔元盛の代になると新市附近の本家宮氏の旧領をも合せ領し、北は神石郡高蓋(三和町高蓋)、西は芦田郡栗柄(府中市栗柄町)、東は品治郡近田村(福山市駅家町近田)までその支配下に収めたという。
有地元盛は毛利氏に属して戦功があったが、完全に服従していたわけではなかった。毛利氏が戦国大名化する以前は毛利氏と同格の国人領主であって、半独立的な性格を持っていたからである。
天正10年(1582)6月、毛利氏が備中高松城で羽柴秀吉軍と対陣中、毛利元就の娘婿上原元祐が秀吉側に寝返った際には、陣中の動揺を押えるため、備後の有力国人衆と共に有地氏も毛利氏から人質を取られている。
有地氏ら備後の国人衆は、常にその行動を毛利氏から疑惑の目で見られていて、毛利氏はこのような国人衆の完全な家臣化には非常に苦労したが、天正19年(1591)頃、有地氏が知行替えによって出雲に移されたのも、国人衆
の家臣化政策の一環として有地氏の在地性をうばい、その勢力を弱めて完全に服従させるためであった。
この結果、有地氏は伝統的な備後国人衆としての立場を失い、大名毛利の一家臣として近世に至るのである。備後における有地氏の所領を示す確かな史料は残っていないが、出雲国に移ってからの知行高は1,518石余であり、江
戸時代の村高で3,000石強となり、有地氏が実際に支配していたと考えられる、上・下有地村と相方村の村高の合計(2,061石余)と品治郡宮内村の村高(889石余)を合わせたもの(2,950石余)とほぼ等しく、これから推定すると有地氏の本領は、有地村と相方村並びに本家宮氏の旧領の一部である宮内村であったと考えられている。
なお民部少輔元盛は、毛利氏の防長移封に従って萩に移住したが、その後周防の日蓮宗本国寺六代目の住職となり、日栄と号した。
|
|
|
] 宮氏の登場
タオルの有地 - 最新投稿 タオルの有地 2006/05/26(金)21:41
|
|
|
|
[37-1] 宮氏の登場
タオルの有地 2006/05/22(月)23:01
|
|
|
●宮氏の登場
南北朝時代、足利尊氏に味方して、備後の砦として活躍した宮氏一族の姿が『太平記』にみられる。宮氏はもともと後醍醐天皇方として、元弘三年(1333)頃、備後において挙兵したものである。しかし、後醍醐天皇に尊氏が叛した建武二年(1335)の末には、尊氏方の諸国の勢のなかにその名がみえ、武家方に属したことが知られる。下野判官正信の子宮下野守兼信は、康永元年(1342)の伊予国の土肥昌義攻めに参加した。尊氏と弟の直義が対立した「観応の擾乱(1351)」には尊氏方に属し、観応二年(1351)、高師泰の石見攻めの軍勢に加わって奮闘している。翌年、南朝方の京都進攻によって足利義詮は近江に逃れたが、その後の義詮の京都奪回の合戦に「宮入道」が備前の松田氏らとともに参加して功をたてている。兼信が活躍したころ宮下野権守盛重がおり、貞和二年(1346)、幕府の命を受けて備後国内の所領押妨人を排除する使節として活躍しており、兼信と同じく尊氏に味方して活躍していた。盛重を兼信の長子とする説もあるが、名乗りや活動時期などから、別流宮氏の人物と思われる。観応の擾乱に際して、盛重は直義=直冬党として活躍した。一方、兼信と子の氏信は一貫して尊氏方に味方し、正平十七年(1356)、足利直冬と富田直貞の連合軍と戦ってこれを撃退している。 康安二年(1362)、直冬の大軍が宮氏の居城亀寿山城を包囲し、味方になるように誘ったが下野入道(兼信)と子の下野二郎氏信はこれを撃退している。このような宮下野入道の忠勤に対して幕府は、貞治三年(1364)、備中国守護職に任じて報いている。このとき、源氏の姓を与えられ屋形号を称することが許されたようで、のちに宮氏が源氏を称するもとになった。守護職は翌年には解任され、以後、宮氏が守護職に補任されることはなかったが、その後、杉原氏、三吉氏らとともに室町将軍近習・奉公衆として京都でも活動するようになる。
|
|
[37-2] タオルの有地
2006/05/22(月)23:05
|
|
|
●宮氏一族の分流 前記のように宮氏にはいくつかの流れがあったようで、幕府奉公衆の番編成などから三つの系統に分かれていたことが知られる。一つは左衛門大夫を名乗る宮氏、二つは上野介を名乗る宮氏、三つめが、官途下野守をもつ下野守家である。上野介を名乗る宮氏は満信・教信など「信」の字を名乗りとしており、氏信の子孫とみられる。また、満信・教信は将軍からの偏諱を受け、将軍に近侍していたことが知られ、氏信系の嫡流であったようだ。 一方、宮氏の惣領家は惣領が名乗る官途下野守をもつ下野守家であったと思われる。『西備名区』に記された亀寿山城主の系譜は、小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛→越前守満盛→下野守満重→下野守元盛→駿河守教元→下野守政盛→親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。そして、歴代の当主は残された文書や記録などにみえる下野守の存在と活動時期に矛盾はない。政盛の寿像の賛によれば、政盛は延徳元年(1489)将軍義尚が催した六角氏討伐軍に加わり忠節を尽くしたことが記されている。しかし、亀寿山城は南北朝時代において兼信・氏信父子が居城としていたことが知られ、いつ、盛重系が亀寿山城主となったのかは不明である。いずれにしろ、宮氏の場合、氏信系と盛重系の二系が双璧であったようだ。宮氏一族の所領は備後国内に散在し、氏信系宮氏は備後南部に勢力を伸ばし、盛重系宮氏は備後北部に支配を伸ばしていった。下野守家の場合、盛重の代に奴可郡に勢力を伸ばし、やがて、久代宮氏、小奴可宮氏を分出させた。久代宮氏は比田山城を本拠として代々上総介を称し、戦国時代には奴可郡全体におよぶ豪族に成長した。
|
|
[37-3] タオルの有地
2006/05/22(月)23:07
|
|
|
●戦国乱世を生きる
さて、宮氏の惣領家と思われる下野守家は、戦国時代の天文のはじめ(1532〜)に断絶したようだ。すなわち『大館常興日記』の天文十年(1541)の条に、宮下野守家が断絶したので一族の宮彦次郎が下野守の所領を切り取って大内氏の味方になり、宮惣領家の安堵を求めている、との記事がみえている。ここに断絶したとある下野守家は盛重系の宮氏と思われるが、盛重系の消息は永正十四年(1513)に活動が知られる新五郎親忠を最後に不明である。可能性として、天文のころ断絶した下野守家は、氏信系宮氏嫡流とも考えられるが、その判断は困難である。戦国期の宮氏は、尼子氏の勢力の傘下に入り、天文十七年(1548)のものと推測される大内義隆書状によれば、宮氏は尼子氏と対立する大内氏に攻められ、その居城が落城している。他方、有地氏系譜によれば、宮直信は甲山城主山内氏を攻撃したが、山内氏を支援する大内氏に攻められ、直信は病死し子の元盛は大内氏に降服したとある。
天文十年(1541)、尼子晴久が毛利攻めで敗北すると、芸備石の国人らは大内氏に与し、大内氏が出雲へ出陣するときは、味方に馳せ参じる旨を大内氏の重臣陶隆房へ申し送った。そのなかに、宮若狭守が見えるが、元盛のことであろう。元盛のあとは高信が継ぎ、この高信の代に元就の麾下に入り、宮から有地に改めたという。他方、奴可郡全体を支配した比田山城主久代宮氏は、尼子氏に従って備前方面に出陣し、小奴可宮氏の所領を押領し、甲山城の山内氏と争い領地拡大につとめた。かくして尼子氏と結んで奴可郡の豪族となった久代宮氏は、毛利元就から警戒されるようになった。やがて、元就が勢力を拡大すると、宮上総介景盛は小奴可宮氏出身の興禅寺策雲元龍のはからいを受け、天文二十二年(1553)毛利氏に属するようになった。かくして、備後に勢力を維持してきた宮氏は、主流こそ断絶したが、庶流の諸氏が乱世を生き抜き、近世へと生き残ったのである。・
|
|
[37-4] タオルの有地
2006/05/26(金)21:41
|
|
|
(有地氏と山城)
有地氏の初期の居城である国竹城(芦田町上有地)は低丘陵上に築かれたもので、曲輪面積は広いものの防備は弱く、居館といった方が良い。
次いで天文年間に築かれたと思われる大谷・殿奥の両城(芦田町下有地)は有地谷の奥まった所にある峻険な山城で、多数の曲輪を持ち、土塁・空堀等で厳重に防備された戦国山城である。平時は国竹城に居住し、一朝事有る時には大谷城や殿奥城に籠ったと思われている。
有地元盛がその全盛期である天正初年に築いたと伝えられる相方城(福山市新市町相方)は、標高191メートルの山上に全面的に石垣を使用して築城され、櫓・城門も瓦葺、礎石使用の本格的なもので、中世城郭から近世城郭への移行途上の城郭として、神辺城と共に県下でも貴重なものといわれている。
|
|
次へ
戻る